コンサートで、本を一冊朗読する。
お客様はそれを聴いてくださる。
音楽にのせての朗読は、どちらかというと演劇に近い性質を持っているように思う。
私は、本の言葉と本に込められた想いをお客様にお届けしよう、
そんな気持ちで朗読している。
自分の感情を重ねた言葉を、音に変換する。
お客様は、私達のパフォーマンスを観に(聴きに)来てくださっているのだから、
「おはなしムジカ」独自の解釈で、音楽を本に合わせていく。
そこに私達のカラーが生まれるから。
話は換わるが、私は教育関係の仕事をしている。
国語という授業の中で、文学作品を読む時、
あるいは、誰かに文学作品について伝えようとする時、大切にしていることがある。
行間だ。
活字にならない部分に込められた作家の想いを感じることで、より一層その作品は深みを増す。
つまり、本が読み手にとって輝きを放つのは、作者の紡ぐ言葉が、読み手の生き様とシンクロして、
豊かな感情や感動が、読み手の中に生まれるからに他ならない。
書き手と読み手との間には、他者の介入を許さない濃密な関係が成立している。
それが読書の醍醐味だと思う。
その場合は、本の読み方を第三者が決めるべきではない。
誰かによって方向付けられた感動は、演劇や映像作品に任せればよい。
間違って受け止めて欲しくないのだが、これは感動に優劣をつける話では決してない。
種類が全く違うのだ。
演劇や映像作品は、もともとある作品に、別のテイストが加わり、それを観る人が味わう。
一方の読書という行為、そこには本を手にした読み手ただ一人しか存在しない。
書き手の想いがダイレクトに伝わる。 だから「読書の醍醐味」と先ほど述べたのだ。
演劇などは、監督や演者が加えてくれたテイストを、読書では、
読み手自身が加味しなければならない。
何がテイストになり得るのかというと、それは「生き様」であろう。
読み手がこれまでに歩んできた道のり、 その全ての要素が、作品の行間を埋め尽くす。
昔読んだ本なのに、今読むと全く違う感想が生まれたりするのも、
きっとそういうことなのだと思う。
今回のコンサートで朗読するのは、「くまとやまねこ」という作品。
私のこれまでの経験でこの作品の行間を埋めていく作業が、コンサートに向けての第一歩。
そして、メンバーみんなで音楽に言葉をのせていく作業を繰り返し、「おはなしムジカ」の作品に
仕上げていくのだ。
私はこの工程がとても好きである。
そして、完成したものをお客様に披露する瞬間、それがとても、とても好きである。